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とれいん工房の鉄道省私文書館

鉄道関係の情報を中心としたブログ。主に未成線や廃線、鉄道史、宮脇俊三、関西の鉄道、ローカル線など鉄道趣味の外縁部を紹介します。

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  1. 2008/10/15(水) 08:07:50|
  2. 未分類

次世代型非鉄道的ケーブルカー「英彦山スロープカー」に乗る


英彦山スロープカー
福岡県田川郡添田町大字英彦山
タイプ  モノレール(2005年開業 嘉穂製作所)
路線A  幸駅(銅鳥居)~花駅(旧英彦山小学校) 単線380m、1両
路線B  花駅~花園駅~神駅(英彦山神宮奉幣殿) 複線469m、2両
概要   車両長6・6m、分速70m、定員41名、最大傾斜角度18度
運賃   幸駅~花駅200円、花駅~神駅300円
営業 年中無休(点検日以外) 9時~17時(幸駅16時発、花駅16時30分発)
アクセス 日田彦山線彦山駅から添田町営バスで18分。鋼の鳥居バス停より徒歩5分。1日8往復(土休日は4往復)

 添田町南部の英彦山神宮への参拝客用に企画されたモノレールタイプの電動スロープカーである。門前にある銅の鳥居から奉幣殿まで続く高低差200m、900段の石段を登り切るのが年配の方には辛かった。成人の足でも45分はかかっていた。
 ここは羽黒山や大峰山と並ぶ日本有数の修験道の霊山として繁栄していた。スロープカーの桁の土台となっている部分はかつて千軒を超える規模を誇った宿坊の跡だという。だが、明治期の廃仏毀釈で次第に廃れてしまい、近年は信者の高齢化で往年の面影は失われようとしていた。
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 このスロープカーの建設はかなり早い段階で気付いていた。

 かつては、こうした遊覧鉄道の情報収集は趣味誌や公文書で取り扱われことはなく、マニア間の口コミに頼るしかなかった。だが、最近、ローカル紙の記事がネットのニュースサイトで取り上げられることも多くなった。
 英彦山に嘉穂製作所のスロープカーが投入されるという西日本新聞の報道を伝え聞いたのは2004年初頭だった。最初はロープウェイの建設を検討していたようだが、景観への配慮もあってスロープカー計画に変更している。
 8月頃にはその概略が明確になってきた。
 当初の構想では延長1㎞に途中駅一つと想定されていた。ただ、途中で計画は変更される。すなわち路線を銅鳥居~小学校跡間、小学校跡~神宮間の2つに分け、それぞれ別路線として運用することになった。
 用地問題も少なからず影響したのかもしれない。宮司を務めてきた一族と氏子との間でトラブルが発生し、町がモノレール用地として神宮から買い取った土地の一部が問題になっていると新聞報道されている。
 当初予定より半年遅れ、英彦山スロープカーは2005年10月10日に開業する。
 工費は8・2億円。嘉穂製作所スロープカーが複線用に2台、単線用に1台投入された。所有は添田町だが、近在で宿泊施設を経営している(財)英彦山勤労者福祉協会(電車運行部)が運営を受託する。
 年間利用者を5万人と想定していたが、開業2ヶ月で達成。7ヶ月半後の5月28日に10万人を突破したという。一日あたり平均利用者は約500人。正月三が日には約5000人の利用があったようだ。
 ここの特徴は、定員40人乗りのスロープカーである。この手の遊覧鉄道系のモノレールでは最大級のサイズである。写真を見る限り、鞍馬寺のケーブルなんて比べものにならないほど大きいサイズである。デザインも魅力的。
 マニアの間でも英彦山の新しい乗り物は注目されており、レールウェイライターこと種村直樹御大も現地を訪れた旨を自身の公式HPでコメントしていた。私も早く乗りたかったが、趣味活動でも仕事でも福岡へ行く機会をなかなか捻出できなかった。
 ただ、同じ福岡県の西鉄宮地岳線が廃止になるというニュースを聞き、そのついでに訪問することにした。

◆英彦山スロープカー「幸駅」で一番列車を待つ乗客はわれわれ2人だけ
 2006年7月21日、大学鉄研同期のT氏と新大阪駅で落ち合い、「ムーンライト九州」の指定席に潜り込む。三ノ宮を出ても乗車率は7割程度というのが意外だったが、姫路と岡山で大量の乗車があり、ほぼ満員で山陽路へと歩みを進める。
 倉敷あたりでウトウトできたと思うが、広島で目を覚ました。時計を確認するが、所定の時間より遅れている。山口県内の大雨の影響でダイヤが乱れているようだ。
 下関でEF81、門司でED73に機関車を変え、小倉には40分遅れの6時50分に到着する。7月22日の朝である。
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 コンビニで朝食を用意し、日田彦山線7時5分発の日田行きに乗り込む。キハ147の2両編成はガラガラだった。
 8時44分、十数年ぶりに訪れた彦山駅は閑散としていた。夏の週末というのに、降りたのはわれわれ2人と、英彦山登山で東京から来た年配の方1人。
 英彦山神宮下行きのバスは9時4分と時刻表で確認していたが、バス停の時刻表には平日のみとある。時刻表記と最寄りのバス停を勘違いしていたらしい。
 今日は土曜日なので、銅の鳥居行きに乗る必要がある。始発便は9時48分。1時間近くある。待っているのも無駄なので、登山客と3人でタクシーを相乗りする。鳥居の前まで8分、2100円。「山に登るのだし、僕は石段の方へ行くよ」というおじさんと別れ、われわれは窓口へい進む。
 乗り場となる幸駅は大きな駐車場の奥にあった。愛称は「幸せをもたらすもの」という意味の〝ボヌール〟となっている。
 だが、60台収容の駐車場に停まっているクルマはほとんどない。時計は9時2分になっているが、スロープカー「幸号」はホームに停まったまま。9時発の始発便は運休になったようだ。事前にネットで調べている限り、シーズンの週末だと1時間待ちは当たり前なんて書き込みが多かった。夏休み最初の週末なのでせめて始発に乗ろうと意気込んできたのだが、予想外のガラガラ具合に拍子抜けする。
 係員に聞くと、オフシーズンはいつもこんな感じらしい。これで大丈夫なのだろうか。混雑しているのは困るが、かと言ってあまり空き過ぎているというのも先行き不安。お財布具合を心配してしまう。
 自販機で往復切符800円を買い求める。次は9時20分。それまで待たねばならない。
 思っていたよりも立派な車両だ。40人乗りの洒落たデザイン。シートは24席あるが、この手の遊覧鉄道にしては珍しくクッションがついていて座り心地がよい。
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◆途中、花駅で複線の別路線に乗り換えて頂上を目指すスロープカー
 定刻になった。ホームドアが動くと、それに連動して車体ドアも閉まる。
 そして発車。ほとんど音や振動もなく、スムーズな動きだ。係員は何も操作していないので、自動制御で動いているのだろう。無人運転も可能らしい。レールは一本。車体の下にある歯車がラックと噛み合いながら駆動していくのであろうか。
 徐々に高度を上げると、大きな窓からの視界が広がる。谷あいには、参道を包むようにして木立が広がる。その脇には休耕している棚田が続き、そこにスロープカーのレールと橋桁は続いていく。
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 勾配は急である。最大傾斜角度は18度もあるとのことが、その傾きにあわせて床面は微妙に動き出す。水平姿勢を保つために、車体と車輪の間を伸縮させる制御装置が付いているということだ。
 花駅には9時28分に到着する。所要は8分。意外と時間がかかった。駅の愛称はフルール。フランス語で花を意味する。
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 終点へ行くには、ここで別なホームの車両に乗り換えなければならない。2階から1階へ移動すると、神駅行きの車両が待っていた。名前は「神号」。
 ここからレールは複線、正確に言うならば、単線が2つ並列している。「神号」と「花号」がそれぞれの線路を往復するのだ。
 花~神間の運転間隔は15分毎で、20分毎の幸~花間と比べて運転本数は多い。花駅にも駐車場があるので、ここから乗車する利用者も多い。それを考慮して、山側区間の輸送力を大きくしているのだそうだ。
 9時35分に発車。線路は休耕田を追うようにして英彦山神社まで伸びている。
 左にカーブすると、花園駅。愛称はジャルダンフルール。たぶんフランス語なんだろう。花公園へ行く下車客専用の簡易駅という扱いになっている。「神号」側の線路にのみホームがあり、希望があれば降車扱いができるという(「花号」は通過扱い)。
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 もちろんマニアとしては、スロープカーの全部の駅に降りてみたい。「後で、花駅からもう一度乗って花園駅に降りたいのだけど」とお願いしてみたが、今日は旅客扱いをしていないと断られた。公園の遊歩道の整備を行っており、観光客が歩ける状況ではないということだった。無念。
 標高が高くなるにつれて見晴らしは良くなってきた。タクシーで仮眠していたから気づかなかったが、英彦山神社って意外と山深いところにあるんだと実感する。
 終点の神駅の2番線に9時42分着。愛称はディウ。どうせフランス語で「神」という意味であるに違いない。隣の1番線ホームには「花号」が待っていた。
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◆想定外の利用者に驚いて拡張計画も検討されている
 ここは神の住まう場である英彦山神宮、その奉幣殿と下宮の最寄り駅である。標高720mのところにある。心なしか下界より涼しく感じられる。
 上宮は英彦山の山頂にあるようだが、標高1200m。歩けば2時間近くかかるという。さすがにそこまで体力はないので断念。奉幣殿の参拝で済ませておく。境内には登山客や参拝客が十数人いた。スロープカーを使わずに石段を歩いてきたのだろう。
 その後、英彦山修験道館を訪ねた。大雑把な展示ではあったが、修験道として栄えた時期の遺物がたくさん残されていた。古びた英彦山の木製ジオラマがあり、展示員に聞いてみると、江戸時代に作成されたものらしい。そんな時代にシーナリーを造った人がいたことに妙に感心させられた。
 帰りは神駅10時50分発で山を下りる。ホームで待っていると、やってきたのはまた「神号」だ。マニア的には「花号」に乗りたいのだが、今日は乗客が少ないので一日お休みになるそうだ。
 乗換駅となる花駅の側には、2002年春に廃校となった英彦山小学校の校舎が残されている。そのスペースを使って、天狗や修験道の展示室、それに昆虫採集の標本があった。昔、家庭科室だったようなスペースには売店と食堂があったので、山菜うどんを注文し、少し早い昼食を済ませる。
 ちょうど席の隣で事務所の方がお昼にしていたのでいくつかの疑問を尋ねてみた。
 最大の疑問は、なぜ路線が2つに分かれているのか。小学校が閉校した後、それを観光資源として有効活用したいというアイデアがあり、そのため校舎の脇に乗換駅を造ったという。なんだかよく分からない理由だ。おそらく冒頭で述べた用地問題なんかもあったと思うのだが、こちらは別にマスコミ人でもないし、聞いても仕方がない。
 また、スロープカーの線路の土台となっている棚田。確かにこれは休耕田なのだが、明治になって修験道が弾圧される前には、何千ものの宿坊がそこに建ち並んでいた。今でも土壌を掘り返せば当時の遺物が出てくるらしい。
 課題としては、花の咲きほこる春や初夏、紅葉の時期、そして正月前後の繁忙期の対策が緊急になっているらしい。待ち時間が1時間を超えることもあり、利用者からの不満が多かった(その後、添田町は、町議会に対してスロープカーの増設費1・5億円を盛り込んだ平成18年度補正予算を提出)。
 冬にも問題がある。九州では比較的積雪量が多いこともあり、市街地と銅鳥居を結ぶ国道500号でチェーン規制がかかることもしばしば。立ち往生する観光客が多くて救済に向かうこともあったそうだ。
 花駅11時50分発に乗り、8分で到着。後は銅の鳥居とその門前町、参道を見物し、町営バスの停留所へ行く。12時30分発の乗客はわれわれ2人だけだった。

テーマ:鉄道 - ジャンル:趣味・実用

  1. 2008/02/08(金) 06:33:08|
  2. 【同人】遊覧鉄道に乗ってみたい!

トロッコに乗って茂住坑へと入る

 「あんた、一番前がいいんだろう」と満場一致で薦められて、先頭車にお邪魔する。もちろん本来の役目である荷物持ちという大切な仕事もある。私の隣に実験道具の入った大きなカバン。そしてH先生、大御所K先生も同じ車両だ。4人も乗ればいっぱいになるサイズだ。
 私を含む研究者9名、そして事務所のスタッフ2名を乗せると、特に合図もなく、機関車は動き出す。ゴトゴトゴトと渡り線に向かい、右へ曲がるとトンネルのポータルが見える。それを潜ればあとはひたすら暗闇の世界に支配される。

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  1. 2007/02/08(木) 14:02:54|
  2. 未成線・廃線の話

ついに神岡鉱山茂住坑でトロッコと遭遇

茂住の坑口前に広がるトロッコ線のヤード


 1997年7月13日早朝、映画をオールナイトで見た後、大阪駅から快速に乗り込む。普通を乗り継いで敦賀へ行き、そこで特急「雷鳥11号」を捕まえて金沢へ。さらに「はくたか」に乗り換えて富山へ行く。
 集合時間は12時。駅前でブラブラしていると、H助教授、そして同じ研究グループの大先生たちもやってくる。
 まずは富山地鉄バスに乗って、婦中町(現、富山市)荻島地区へ移動する。付近の土壌は神通川を通して運ばれたカドミウムで汚染されてしまい、ここで収穫した米を媒介として病気が広まってしまった。死者が100人を超えてしまう状況のなか、地元の開業医である荻野昇や多くの研究者、弁護士たちが手弁当で問題解決に取り組んだ。そんな公害反対運動の拠点となってきた清流会館がここにある。
 研究会の議題となったのは、組織の運営方針とか水質汚濁調査の方法論とかなんとか。門外漢の私は荷物持ち兼用の大学院生と紹介してもらったが、ここにいてもいいんだろうかという気持ちにさせられる。この日はそのまま清流会館で宿泊する。
[ついに神岡鉱山茂住坑でトロッコと遭遇]の続きを読む
  1. 2007/01/24(水) 19:01:21|
  2. 【同人】遊覧鉄道に乗ってみたい!

神岡鉱山茂住坑と神岡鉱山鉄道

 年末に出した「遊覧鉄道に乗ってみたい!」の中から、鉄道マニアでもほとんど乗車する機会がなかったと思われる鉄道について紹介してみましょう。
 まずは、旧三井金属鉱山神岡鉱山茂住坑のトロッコ列車の話です。
 茂住坑は、2001年に閉山となった神岡鉱山で最後まで採掘された鉱脈のことで、その入口は12月で廃止された神岡鉄道茂住駅跡から徒歩15分ほど歩いたところにありました。80年代からは、別に設けられた跡津川坑口からトラックで直接乗り入れることが出来るようになり、トロッコ線の使命は消え失せたのですが、後述するカオミカンデや廃水処理施設の管理のため、引き続きその機能は残されていました。1997年にイタイイタイ病の調査団に加わったときに乗車する機会がありまして、10年後の今、改めて報告することにしたのです。

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神岡鉱山鉄道】
場所  岐阜県飛騨市神岡町東茂住(旧神岡町)
タイプ 蓄電池機関車(1979年開業)
概要  延長3㎞ 軌間610㎜ 所要15分
車両  機関車1両+トロッコ2両
運賃   無賃
営業 現在は非公開(1998年頃から?)
アクセス 猪谷駅から富山地鉄バスで8分 4往復 茂住下車
     他にスクールバスや巡回バスが7往復
     富山から国道41号を南下

 「イタイイタイ病の調査に行かないか」と大学のH助教授が声をかけてきたのは10年前に大学院へ通っていたときのこと。
 先生は、病気の原因となったカドミウムの汚染状況を調査する専門家グループの一員だった。ここ三十年間、神岡鉱山で水質調査を定期的に続けており、この夏も他の仲間たちや現地の被害者グループと立入調査を行う手はずになっていた。私は地方財政学を専攻していて環境問題については門外漢なのだが、日頃から可愛がってもらっており、ついでに調査旅行へ誘われたのだ。
 日曜日に現地へ入り、富山県で研究会。月・火と神岡鉱山での調査を行うという。
 三日間の休みは取りにくい。同じ院生仲間のYさんはパス。僕も塾講師の仕事があるし、最初は断ろうとした。
 ところが、スケジュール表を見て気が変わった。火曜日には茂住坑から坑道の奥まで入って水質調査をするというのである。茂住にはまだ鉱山鉄道が残っている。
 「へえ、坑内に入ってまで調査をするんですか。で、どうやって入坑するんですか」と私。大学院生としての領分を忘れ、マニアの性を出てしまう。予想通り、トロッコは現存しており、坑内の移動に使うことになるらしい。それを確認した後、参加を申し込むことにした。内心忸怩たるものはあったが、興味の方向がトロッコにあることは黙っておいていた。それは礼儀だろう。
 関係者以外が鉱山鉄道に乗ることは極めて難しい。神岡の場合、後述するカミオカンデの見学ツアー「ジオスペースアドベンチャー」が東大と神岡町の手で年に2~3回催され、その際、700mほどトロッコに乗車することになる。でも、今回の調査では最深部まで4㎞ほどの道のりだ。マニア的には願ってもないチャンスである。

 さて、ここからは長くなるが、神岡鉱山と鉱山鉄道の概要を見ていきたい。
[神岡鉱山茂住坑と神岡鉱山鉄道]の続きを読む
  1. 2007/01/23(火) 19:32:58|
  2. 【同人】遊覧鉄道に乗ってみたい!

単軌条運搬器具、モノライダーの40年史

 90年代から現在にかけて、「鉄道でない鉄道」の中心となっているのは、モノレール・ケーブルカータイプの運搬器具である。農林産業関係者の間で「単軌条運搬機」と呼ばれる機械がその原型である。
 始まりは愛媛県の農機メーカー米山工業が1966年に発表したレール式荷物運搬機「モノラック」。マニアの間で「ミカンモノレール」と呼ばれる農業用モノレールで、エンジンを搭載した運搬具をH型鋼材のレール上に乗せて走行させる。運搬具には駆動輪のピニオンピン(歯車)を付け、レールの側面や下側にはラック(波状の板)を貼り付け、この2つを噛み合わせることで急斜面の登坂を可能にした。自動車輸送が難しい山間地でのミカンなど果実輸送、そして農家の重労働の緩和に大きな威力を発揮する。
 この後、他社の参入も相次ぎ、「単軌条運搬機」のマーケットは広がる。


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<高知県四万十川沿いで見かけたチグサ製「ちぐさ索道」の単軌条運搬機。対岸にある田畑や家屋への資材運搬用のものと推測される> [単軌条運搬器具、モノライダーの40年史]の続きを読む
  1. 2007/01/10(水) 06:28:16|
  2. 【同人】遊覧鉄道に乗ってみたい!

【宮脇俊三と中公 その10 最終回】陳勝、忠臣の李斯、そして趙高

 ただ、宮脇も、中央公論社とそこで出会った人たちを忘れたわけでは決してない。
 国鉄関連の図書雑誌で有名だった中央書院という老舗出版社がある。近年、鉄道趣味人向けの出版にも力を入れるようになってマニアにも知られるようになった。 同社の社長だった故・竹森清氏。実は「風流夢譚」事件の時の『中央公論』編集長で、事件後、半ば追われるようにして会社を去っていった。そんな彼が奥様の実家の出版社を継ぎ、独立したばかりの宮脇と連絡を取り、自宅まで訪ねていったという。独立間もない宮脇の行く末を心配してくれたのだろう。「時刻表二万キロ」がベストセラーになった後、文春や新潮、角川など大手で仕事をするようになるまでの間、宮脇は同社の仕事をいくつかこなしている(後に『鉄道に生きる人たち』として単行本化)。
 一方、宮脇は、分割民営化の頃にも、同社でたびたび仕事をする機会があった。すでに紀行作家の大御所として名を知られていた宮脇がマイナー出版社で仕事をするメリットは少なかったと思う。ただ、国鉄の消滅で鉄道関連書の売れ行きが落ち込み、苦境に陥った先輩への恩返しの気持ちもあったのだろう。

鉄道に生きる人たち―宮脇俊三対話集 鉄道に生きる人たち―宮脇俊三対話集
宮脇 俊三 (1987/05)
中央書院

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  1. 2006/12/19(火) 00:23:23|
  2. 宮脇俊三と中央公論社

【宮脇俊三と中公 その9】宮脇去りし後の中央公論社

 こうして宮脇の略歴を振り返ってみると、その豊富な知識や人脈が編集者時代に培われた物であることが分かる。
 対談で他人の言葉を引き出す妙、物事を突き放して客観視できるセンスもそうだ。彼特有の語りの巧みさや、シニカルな視点も、阿川や北など当代随一の作家たちの生原稿に触れる機会があってからこそのものだ。材料に大上段から切り込むのではなく、現場レベルの一次資料から議論を積み重ねていこうという誠実さも、誤植が許されない編集者ならではの慎重さから来るものであろう。様々な交流を通じて吸収した知識を自らの糧として昇華させ、独自の視点を付け加えることで、あの巧妙な文体が仕上がった。
 その後の中央公論についても語っておこう。

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  1. 2006/12/17(日) 05:25:16|
  2. 宮脇俊三と中央公論社

【宮脇俊三と中公 その8】臣聞、古之君子交絶不出悪声、忠臣去国不潔其名

 宮脇の社内での位置づけも変わった。組合との妥結をみた六九年、取締役に就いている。だが、「体制の回復をはかるが失敗」(自筆年譜)して編集局長から開発室長に転じる。わずか四人の独立部隊である。ここでレコードの全集を企画するなど利益を優先した本造りを始める。
 七三年には中公文庫の創刊も行う。スタート時のラインナップには、隣人北杜夫の著作も並ぶ。もちろん、13年前に2人作り上げた「どくとるマンボウ航海記」も。北は8年前に新潮社から文庫本を出していたのに、さらに中央文庫からの発刊も認めた。現役作家としては異例のことである。各社がたくさんの文庫本を発刊している中で、中央公論社は後発として参入しなければならない。その陣頭指揮をとっている宮脇に対する気遣いと応援の意味があったと思う。

どくとるマンボウ航海記 どくとるマンボウ航海記
北 杜夫 (1973/01)
中央公論新社

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  1. 2006/12/15(金) 23:34:37|
  2. 宮脇俊三と中央公論社

【宮脇俊三と中公 その7】スト後に混迷を深める中央公論社

 未曾有の混乱はようやく終わりを告げるが、この案件は中央公論社に大きな禍根を残した。
 嶋中社長は左右双方から相次いだ抗議の連続に萎縮し、社業と距離を置き始める。優れた編集者であり、プランナーであったが、会社の主としては狭量だったと評されている。当時の部下たちが中公を回顧するときにも、意図的に嶋中について触れようとはしない。
 ストの争点の一つとなった粕谷編集長はその職を解かれている。辞職届を強要した嶋中社長や会社側(宮脇?)に不信感を抱く。労働組合は穏健派が主導権を握り、徹底抗戦を訴える強硬派は孤立する。社員の大多数は無関心を決め込み、組合活動も出版活動も会社自体も沈滞ムードが漂うようになる。
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  1. 2006/12/14(木) 21:09:22|
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【宮脇俊三と中公 その6】二百人以上の組合員との団交に一人立ち向かう

 ここに一冊、興味深い資料がある。中央公論社労働組合がまとめた『一九六八 年末闘争記録』という冊子で、三ヶ月に及ぶ団体交渉や労使協議会の発言が再録されている。その中で、会社側の交渉者として辣腕を振るっていたのが、あの宮脇であった。
 十二月二十三日、本社ビル七階の大ホールに二百三十人を越す全組合員と経営者側が集まる。嶋中社長が突然、辞意を表明。その後、心臓発作で帰宅。主を失い、議場が混乱している中、組合幹部は部長・局長クラスに自己批判を要求して怒号を繰り返す。何ら有効な策を打ち出せない会社側は次第に追いつめられていく。同時期に行われた大学紛争、あるいは中国の文化大革命を思い起こさせる風景だ。
 そうした突然の下克上と混乱の渦の中で、交渉の矢面に立たっていたのが、宮脇編集局長であった。
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  1. 2006/12/13(水) 20:39:30|
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【宮脇俊三と中公 その5】「風流夢譚」事件に始まる社内混乱、そして無期限スト突入

 だが、この六八年の末、中央公論社を揺るがす無期限ストが発生したことで、会社側と組合側との調整役として宮脇も巻き込まれることになるのであった。
 騒動のきっかけとして、六一年二月に起きた「風流夢譚」事件を見逃すことはできない。
 その前年、天皇家をパロディーにした深沢七郎の小説「風流夢譚」が『中央公論』誌に掲載されたのだが、それに対して、右翼勢力が皇室に対する名誉毀損ではないかと抗議活動を展開していた。宮内庁や政治家たちも介入し始め、事態はきな臭さを漂わせ始める。
 その渦中で右翼青年が中央公論社の嶋中鵬二社長宅に侵入して家政婦を殺害、雅子夫人に重傷を負わせる。いわゆる「風流夢譚」事件である。

流浪の手記―風流夢譚余話 (1963年) 流浪の手記―風流夢譚余話 (1963年)
深沢 七郎 (1963)
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  1. 2006/12/12(火) 04:41:47|
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【宮脇俊三と中公 その4】中公新書の刊行、そして看板雑誌「中央公論」編集長に

 そして、若手スタッフと共に新書の研究に着手し、六二年に中公新書シリーズを創刊し、これまたベストセラーの上位に何冊も送り込んでいる。
 その中には、ビルマでの抑留生活で遭遇した英国人を冷徹に描いた会田雄次『アーロン収容所』、性的にも学問的にもタブー視されてきた中国官僚を紹介する三田村泰助『宦官』と業界人の意表をつく話題作も数多かった。
 宮脇は、議論や解釈の深みにはまっていくのではなく、「事実のみ持つ無条件の説得力を発揮させる」(刊行のことば)ことに力を注ぐ。愛読していた『史記』の中で司馬遷が立脚していた思想を具現化しようとしていたのだ。今日、書店に行くと、各社から毎月何十冊も発行される新書を見かけると思うが、その編集スタイルを確立したのが宮脇だった。自身も、中公新書の創刊を会社員時代の一番の仕事だったと自負している。
アーロン収容所―西欧ヒューマニズムの限界 (1962年) アーロン収容所―西欧ヒューマニズムの限界 (1962年)
会田 雄次 (1962)
中央公論

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宦官(かんがん)―側近政治の構造 (1963年) 宦官(かんがん)―側近政治の構造 (1963年)
三田村 泰助 (1963)
中央公論

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  1. 2006/12/11(月) 13:43:19|
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【宮脇俊三と中公 その3】職人的本作りの編集者宮脇俊三の誕生

 ここで宮脇の指導役となったのが、後に専務となる高梨茂であった。療養先から戻ってきたばかりの宮脇に対し、事細かには本作りの手ほどきを行う。宮脇はそのノウハウを引き継ぎ、次々と作品作りに没頭していく。同僚だった藤田良一は、この当時の宮脇の日常を「黒革のショルダーバッグを肩に、とことこと出社するや、集中的な編集作業をはじめる」と語る。体調優れず自律神経失調症かと医者にかかってみると乱視が進んでいたとのエピソードも残されている。いつしか職人的編集者として話題の作品を送り出すようになる。
 新進気鋭の作家であった阿川弘之の紀行文をまとめてエッセイストとしての側面を開拓したのを手始めに(『お早く御乗車願います』)、着実に実績作りを行っていく。本人が「この時期の忘れられない思い出です」(『途中下車』p.109)と語る、『松川裁判批判』(『中央公論』臨時増刊)を広津和郎とのコンビでまとめ上げたのもこの頃である。


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  1. 2006/12/10(日) 01:55:23|
  2. 宮脇俊三と中央公論社

【宮脇俊三と中公 その2】1951年に中央公論社に入社。そして結核での長期休養

◆就職直後の結核による休職の日々

 中央公論社時代のエピソードは『時刻表2万キロ』でさらりと触れられていたが、その内実はよく分からなかった。退社のいきさつが複雑だったからとは想像できる。そんな宮脇が会社員時代のいきさつを初めて明らかにしたのがインタビュー集『私の途中下車人生』であった。
 宮脇が東大文学部西洋史学科を卒業し、中央公論社に入社したのは五一年、二四歳の時である。
私の途中下車人生 私の途中下車人生
宮脇 俊三 (1986/10)
講談社

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  1. 2006/12/09(土) 05:45:28|
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もりくち

Author:もりくち
関西在住の鉄道マニア兼バックパッカー。「とれいん工房」として同人誌を多数発行。2001年に「鉄道未成線を歩く 私鉄編」、2002年に「鉄道未成線を歩く 国鉄編」をJTB出版事業局(現、JTBパブリッシング)から刊行しています。日々の話は、下のリンク先にある「とれいん工房の汽車旅12ヵ月」へ。連絡先はmalmori●nifty.com。

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