ただ、宮脇も、
中央公論社とそこで出会った人たちを忘れたわけでは決してない。
国鉄関連の図書雑誌で有名だった
中央書院という老舗出版社がある。近年、
鉄道趣味人向けの出版にも力を入れるようになってマニアにも知られるようになった。 同社の社長だった故・竹森清氏。実は「風流夢譚」事件の時の『中央公論』編集長で、事件後、半ば追われるようにして会社を去っていった。そんな彼が奥様の実家の出版社を継ぎ、独立したばかりの宮脇と連絡を取り、自宅まで訪ねていったという。独立間もない宮脇の行く末を心配してくれたのだろう。「時刻表二万キロ」がベストセラーになった後、文春や新潮、角川など大手で仕事をするようになるまでの間、宮脇は同社の仕事をいくつかこなしている(後に『
鉄道に生きる人たち』として単行本化)。
一方、宮脇は、分割民営化の頃にも、同社でたびたび仕事をする機会があった。すでに紀行作家の大御所として名を知られていた宮脇がマイナー出版社で仕事をするメリットは少なかったと思う。ただ、国鉄の消滅で
鉄道関連書の売れ行きが落ち込み、苦境に陥った先輩への恩返しの気持ちもあったのだろう。
[【宮脇俊三と中公 その10 最終回】陳勝、忠臣の李斯、そして趙高]の続きを読む
- 2006/12/19(火) 00:23:23|
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こうして宮脇の略歴を振り返ってみると、その豊富な知識や人脈が編集者時代に培われた物であることが分かる。
対談で他人の言葉を引き出す妙、物事を突き放して客観視できるセンスもそうだ。彼特有の語りの巧みさや、シニカルな視点も、阿川や北など当代随一の作家たちの生原稿に触れる機会があってからこそのものだ。材料に大上段から切り込むのではなく、現場レベルの一次資料から議論を積み重ねていこうという誠実さも、誤植が許されない編集者ならではの慎重さから来るものであろう。様々な交流を通じて吸収した知識を自らの糧として昇華させ、独自の視点を付け加えることで、あの巧妙な文体が仕上がった。
その後の中央公論についても語っておこう。
[【宮脇俊三と中公 その9】宮脇去りし後の中央公論社]の続きを読む
- 2006/12/17(日) 05:25:16|
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宮脇の社内での位置づけも変わった。組合との妥結をみた六九年、取締役に就いている。だが、「体制の回復をはかるが失敗」(自筆年譜)して編集局長から開発室長に転じる。わずか四人の独立部隊である。ここでレコードの全集を企画するなど利益を優先した本造りを始める。
七三年には中公文庫の創刊も行う。スタート時のラインナップには、隣人北杜夫の著作も並ぶ。もちろん、13年前に2人作り上げた「どくとるマンボウ航海記」も。北は8年前に新潮社から文庫本を出していたのに、さらに中央文庫からの発刊も認めた。現役作家としては異例のことである。各社がたくさんの文庫本を発刊している中で、中央公論社は後発として参入しなければならない。その陣頭指揮をとっている宮脇に対する気遣いと応援の意味があったと思う。
[【宮脇俊三と中公 その8】臣聞、古之君子交絶不出悪声、忠臣去国不潔其名]の続きを読む
- 2006/12/15(金) 23:34:37|
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未曾有の混乱はようやく終わりを告げるが、この案件は中央公論社に大きな禍根を残した。
嶋中社長は左右双方から相次いだ抗議の連続に萎縮し、社業と距離を置き始める。優れた編集者であり、プランナーであったが、会社の主としては狭量だったと評されている。当時の部下たちが中公を回顧するときにも、意図的に嶋中について触れようとはしない。
ストの争点の一つとなった粕谷編集長はその職を解かれている。辞職届を強要した嶋中社長や会社側(宮脇?)に不信感を抱く。労働組合は穏健派が主導権を握り、徹底抗戦を訴える強硬派は孤立する。社員の大多数は無関心を決め込み、組合活動も出版活動も会社自体も沈滞ムードが漂うようになる。
[【宮脇俊三と中公 その7】スト後に混迷を深める中央公論社]の続きを読む
- 2006/12/14(木) 21:09:22|
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ここに一冊、興味深い資料がある。中央公論社労働組合がまとめた『一九六八 年末闘争記録』という冊子で、三ヶ月に及ぶ団体交渉や労使協議会の発言が再録されている。その中で、会社側の交渉者として辣腕を振るっていたのが、あの宮脇であった。
十二月二十三日、本社ビル七階の大ホールに二百三十人を越す全組合員と経営者側が集まる。嶋中社長が突然、辞意を表明。その後、心臓発作で帰宅。主を失い、議場が混乱している中、組合幹部は部長・局長クラスに自己批判を要求して怒号を繰り返す。何ら有効な策を打ち出せない会社側は次第に追いつめられていく。同時期に行われた大学紛争、あるいは中国の文化大革命を思い起こさせる風景だ。
そうした突然の下克上と混乱の渦の中で、交渉の矢面に立たっていたのが、宮脇編集局長であった。
[【宮脇俊三と中公 その6】二百人以上の組合員との団交に一人立ち向かう]の続きを読む
- 2006/12/13(水) 20:39:30|
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だが、この六八年の末、
中央公論社を揺るがす無期限ストが発生したことで、会社側と組合側との調整役として宮脇も巻き込まれることになるのであった。
騒動のきっかけとして、六一年二月に起きた「
風流夢譚」事件を見逃すことはできない。
その前年、天皇家をパロディーにした深沢七郎の小説「
風流夢譚」が『
中央公論』誌に掲載されたのだが、それに対して、右翼勢力が皇室に対する名誉毀損ではないかと抗議活動を展開していた。宮内庁や政治家たちも介入し始め、事態はきな臭さを漂わせ始める。
その渦中で右翼青年が
中央公論社の
嶋中鵬二社長宅に侵入して家政婦を殺害、雅子夫人に重傷を負わせる。いわゆる「
風流夢譚」事件である。
[【宮脇俊三と中公 その5】「風流夢譚」事件に始まる社内混乱、そして無期限スト突入]の続きを読む
- 2006/12/12(火) 04:41:47|
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そして、若手スタッフと共に新書の研究に着手し、六二年に中公新書シリーズを創刊し、これまたベストセラーの上位に何冊も送り込んでいる。
その中には、ビルマでの抑留生活で遭遇した英国人を冷徹に描いた
会田雄次『アーロン収容所』、性的にも学問的にもタブー視されてきた中国官僚を紹介する三田村泰助『宦官』と業界人の意表をつく話題作も数多かった。
宮脇は、議論や解釈の深みにはまっていくのではなく、「事実のみ持つ無条件の説得力を発揮させる」(刊行のことば)ことに力を注ぐ。愛読していた『史記』の中で司馬遷が立脚していた思想を具現化しようとしていたのだ。今日、書店に行くと、各社から毎月何十冊も発行される新書を見かけると思うが、その編集スタイルを確立したのが宮脇だった。自身も、中公新書の創刊を会社員時代の一番の仕事だったと自負している。
[【宮脇俊三と中公 その4】中公新書の刊行、そして看板雑誌「中央公論」編集長に]の続きを読む
- 2006/12/11(月) 13:43:19|
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ここで宮脇の指導役となったのが、後に専務となる高梨茂であった。療養先から戻ってきたばかりの宮脇に対し、事細かには本作りの手ほどきを行う。宮脇はそのノウハウを引き継ぎ、次々と作品作りに没頭していく。同僚だった藤田良一は、この当時の宮脇の日常を「黒革のショルダーバッグを肩に、とことこと出社するや、集中的な編集作業をはじめる」と語る。体調優れず自律神経失調症かと医者にかかってみると乱視が進んでいたとのエピソードも残されている。いつしか職人的編集者として話題の作品を送り出すようになる。
新進気鋭の作家であった阿川弘之の紀行文をまとめてエッセイストとしての側面を開拓したのを手始めに(『お早く御乗車願います』)、着実に実績作りを行っていく。本人が「この時期の忘れられない思い出です」(『途中下車』p.109)と語る、『松川裁判批判』(『
中央公論』臨時増刊)を広津和郎とのコンビでまとめ上げたのもこの頃である。
[【宮脇俊三と中公 その3】職人的本作りの編集者宮脇俊三の誕生]の続きを読む
- 2006/12/10(日) 01:55:23|
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◆就職直後の
結核による休職の日々
中央公論社時代のエピソードは『時刻表2万キロ』でさらりと触れられていたが、その内実はよく分からなかった。退社のいきさつが複雑だったからとは想像できる。そんな宮脇が会社員時代のいきさつを初めて明らかにしたのがインタビュー集『私の途中下車人生』であった。
宮脇が東大文学部西洋史学科を卒業し、
中央公論社に入社したのは五一年、二四歳の時である。
[【宮脇俊三と中公 その2】1951年に中央公論社に入社。そして結核での長期休養]の続きを読む
- 2006/12/09(土) 05:45:28|
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宮脇が処女作『時刻表2万キロ』を刊行したのは七八年、五一歳の時だった。作家のデビューとしてはかなり遅い年齢である。だが、その温もりの伝わってくる文体によって読者を魅了し、単なる趣味の人たちに限らず、広い層に対して
鉄道旅行の魅力を伝えることになる。その蓄積は一朝一夕で身につけたわけではない。作家活動の直前まで勤務していた
中央公論社(現、
中央公論新社)での活動があったからこそのものだ。
ここでは、宮脇作品を生み出す土壌となった
中央公論社における二七年の編集者生活を見ていきたい。
[【宮脇俊三と中公 その1】宮脇俊三の隣人、北杜夫。そして中央公論社の編集者]の続きを読む
- 2006/12/08(金) 21:47:27|
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