とれいん工房の鉄道省私文書館

鉄道関係の情報を中心としたブログ。主に未成線や廃線、鉄道史、宮脇俊三、関西の鉄道、ローカル線など鉄道趣味の外縁部を紹介します。

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紀伊半島の貨物索道の話 その3

■吉野林業における木材の搬出

 そもそも奈良県の林業の中心となっていたのは、吉野林業といわれる奈良県吉野郡域で、県内森林の七一%を占め、吉野川(下流部の和歌山県では紀ノ川)流域を中心に展開されるスギ、ヒノキを主とする人工林が山間一面に広がっていた。
 吉野林業を流域別に区分すると、
Ⅰ 吉野川流域 川上・東吉野・黒滝村など
Ⅱ 北山川流域  上北山・下北山・和歌山県北山村など
Ⅲ 十津川上流域 天川・大塔・野迫川村
Ⅳ 十津川下流域 十津川村
の四区域に分かれる。そして、吉野川・上十津川流域の木材は奈良県五条・吉野の集積場へ、下十津川・北山川流域からは和歌山県新宮の集積場へ運ばれた。

下の橋梁は、建設だけ進められながら実現はなかった国鉄の未成線である阪本線(五新線)であるが、明治ころから企画はされるものの、実際に工事に着手されたのは昭和になってから。写真の橋梁が完成するのは1970年代に入ってからである。
 それまでは河川での筏下りがその主要な運搬手段であったが、一部では人力で陸送されることもあった。各貯木場から大阪や東京などの市場へは鉄道で輸送されることもあった。

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また和歌山県内では、吉野川下流の紀ノ川、十津川下流の熊野川、および有田川と日高川が四大林業地帯になっており、それぞれ和歌山・新宮・有田・御坊の各都市が林業の集積地として地域経済の中核を担っている。
そうした木材を海岸部の港まで運送する際、明治期になっても運送手段は筏下りに依存していたが、それだと搬出量にも限界がある。そこで、モーターを使った貨物索道が出現することになる。
 そもそも「やかた(空中ケーブル 十津川では「野猿」と呼ぶ)」と呼ばれる機器が、紀伊山中の各地に張り巡らされていた。山中の川や谷を跨いで空中に太い綱を架設し、そこにゴンドラをかけて、曳き綱を人力で引っぱることでゴンドラを動かし、人や資材を移動させていた。
 これを本格化したものが、貨物索道である。A地点とB地点との間に鉄索(ワイヤーロープ)をかけて、そこに貨物を載せる搬機を引っかけて運搬する。システムそのものは「やかた」と同様だが、距離は長く、何百㎏単位の貨物を運搬するため、動力には蒸気や水力電気によるモーターを採用し、鉄索も頑丈なものが使われている。

■林業開発と索道敷設の歩み

紀伊半島で初めて誕生した索道は、三重県尾鷲町柳谷-奈良県上北山村出合(東の川地区)の間の延長六㎞の索道で、一九○五年に開通している。林業王の土井家らを中心に出資され、北山地区の天然木が山を越えて尾鷲に運ばれるようになった。
 続いて誕生した索道は、上北山村の東ノ川地区の竜ノ谷索道(三重県側では坂下索道)で一九一一年三月から稼働している。三重県尾鷲町南浦と奈良県上北山村出合(東の川)の間六㎞を結び、それまで筏で新宮まで運んでいた北山杉を尾鷲港まで運搬するのが狙いであった。後に日本標準となる玉村式(玉村勇助考案)の単線循環式索道を採用し、一日三七トンの運搬力を持っていた。
吉野川流域での貨物索道としては、五条界隈の大和索道(創立時 資本金三五万円)が中心的な役割を果たす。
大和索道は、一九○八年に米国人技師が設計していながら資金不足で着工が見送られるが、一九一二年五月二四日に奈良県五条町二見-和歌山県富貴(現、高野町)間が開通し(単線式)、木材などの山林関係の生産物、そして日用物資は索道を利用して運搬されるようになる。五条側の拠点は、国鉄和歌山線の支線の終点になる川端貨物駅に隣接して設置され、木材の一部はここから国鉄の貨車に乗せられて全国各地に運ばれた。
一九一七年六月には富貴-大塔村天辻-阪本間八㎞が延長され、索道駅が設置された天辻と阪本は物資の集積地として栄えた。特に、阪本駅周辺の集落は「索道」と呼ばれるようになる。一九二〇年には十津川村の長殿への支線も開通している。一九二七年頃になると、野迫川村の立里鉱山の鉱石を運搬することになり、阪本-紫園間(野迫川村)も開通する。
「五條市史 新修」に掲載されている一九三〇年度下半期のデータを見ると、阪本方面への上り荷二〇〇〇トンの三四%は米で、肥料が二三%、大豆が一八%となる。一方、五条方面への下り荷三〇〇〇トンの三三%は木材の輸送で、薪炭と桶木が一三%ずつとなる。大正期には野迫川の凍豆腐の輸送が下り荷全体の二割近くを占めていたが、他索道の開通で輸送量は落ち込んでいる。

■紀勢本線の開業に先行して敷設された矢の川索道

 あともう一つ、紀伊半島の索道として忘れられないのは、矢の川索道であろう。一九二七年、三重県尾鷲市(当時は尾鷲町)の矢の川峠に敷設された一・五㎞の索道で、単線自動循環式が採用されていた。
当時、現在の紀勢本線を全通すべく滝原-尾鷲-新宮間で鉄道建設が進められていた。一九二二年七月から尾鷲自動車(後に紀伊自動車)が尾鷲-矢ノ川峠間、そして木本(現、熊野市)-矢ノ川峠間でバス路線を開通させるが、わずか一㎞で四〇〇mも登らねばならない矢の川峠(正確には峠の三㎞ほど手前)には自動車道路がなく、ここを突破することができない。冬場には積雪で通行不能になり、運転は四月~一〇月の夏季だけであった。
そこで紀伊自動車は、貨物用として普及している玉村式索道を矢ノ川峠に敷設し、旅客索道として運転されることになった。貨物索道用のシステムを旅客用に転用しているため、鉄道省ではなく三重県の特認で実施される。
索道が開通したのは一九二七年五月二九日。車両は二人乗りで、大橋駅と小坪駅を一〇分で結んだ。索道の大橋駅では尾鷲行き、小坪駅では木本行きのバスが接続する。六分間閣で一時間に上下合わせて最大四〇人を輸送。昭和四年のデータでは、上下とも、年間四〇〇〇人弱の利用があった。頂上からは尾鷲のリアス式海岸が一望でき、観光名所ともなったようだが、風の強い日には揺れが激しく、動転する旅客が相次いだという。
この索道は、峠道の改修が完成した一九三六年一〇月に営業を終了。代わりに、鉄道省が、矢ノ川峠越えの直通省線バス尾鷲線(後に国鉄バス紀南本線)の営業を始めている。国鉄バス紀南線は、一日四往復、尾鷲-紀伊木本間を二時間四〇分で結んだ。紀勢線が全線を開通し、気動車が同区間を三〇分程度で結ぶようになるのは、一九五九年のことである。
 また、本格的な旅客索道としては、一九二九年の吉野ロープウェイ、一九三二年の二見浦ロープウェイの二つが戦前に誕生している。吉野ロープウェイは、吉野大峰ケーブルの手で、今日でも普通索道の扱いで営業を続けている。
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  1. 2006/09/08(金) 05:56:16|
  2. 未成線・廃線の話

プロフィール

もりくち

Author:もりくち
関西在住の鉄道マニア兼バックパッカー。「とれいん工房」として同人誌を多数発行。2001年に「鉄道未成線を歩く 私鉄編」、2002年に「鉄道未成線を歩く 国鉄編」をJTB出版事業局(現、JTBパブリッシング)から刊行しています。日々の話は、下のリンク先にある「とれいん工房の汽車旅12ヵ月」へ。連絡先はmalmori●nifty.com。

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