宮脇が処女作『時刻表2万キロ』を刊行したのは七八年、五一歳の時だった。作家のデビューとしてはかなり遅い年齢である。だが、その温もりの伝わってくる文体によって読者を魅了し、単なる趣味の人たちに限らず、広い層に対して
鉄道旅行の魅力を伝えることになる。その蓄積は一朝一夕で身につけたわけではない。作家活動の直前まで勤務していた
中央公論社(現、
中央公論新社)での活動があったからこそのものだ。
ここでは、宮脇作品を生み出す土壌となった
中央公論社における二七年の編集者生活を見ていきたい。
◆
北杜夫の隣人だった
宮脇俊三 私が小学六年生の時だから、八三年のことだったか。
鉄道と軍艦の本しか読まない私を心配した両親は、プレゼントと称して何冊かの文庫本を買い与えてくれた。その一つが、
北杜夫の『どくとるマンボウ』シリーズである。性格が単純にできている私はいつの間にか感化され、近所の図書館で
北杜夫全集を片っ端から読みあさった。さらに、元来の収拾癖が禍したのか乏しい小遣いをやりくりして文庫本を買い集め始めた。
『マンボウぼうえんきょう』を手にしたときだったと思う。躁と鬱が交錯するような滅茶苦茶な表現に頬を弛ませながら最後まで読み通し、あとがきのページまでたどり着いた。まんぼう氏の隣人のお話である。この手のあとがきなんてのは毒にも薬にもならない文章ばかりで読み飛ばすのだが、隣人から見た
北杜夫の興味深いエピソードがユーモアたっぷりに紹介されていた。で、執筆者を見てみると、「作家
宮脇俊三」とあった。
なんで
宮脇俊三がここに出てくるの?
北杜夫の隣に住んでいるってどういうことなの?
他の
北杜夫作品を調べてみると、なるほどいろんなところで宮脇が登場してくる。『マンボウ博士と怪人マブゼ』や『親不孝旅日記』にも解説を書いているし、『どくとるマンボウ途中下車』では東海道新幹線試乗記を強引に書かせるM氏として登場している。『マンボウ人間博物館』ではマンボウ氏の結婚式の司会をしていたエピソードが紹介されているし、『マンボウマブゼ共和国建国由来記』では、マンボウ・マブゼ共和国のコロンブス賞を授与するという名誉にも授かっている。
宮脇俊三と
北杜夫。文体も作風も異なる二人の接点は
中央公論社時の五九年に始まっていた。このあたりの由来は『マンボウマブゼ共和国建国由来記』での奥野健男の解説に詳しい。奥野は、純文学を紡ぐ無名の作家だった
北杜夫を高く評価しており、小学生の時の同級生だった宮脇に紹介する。その縁でできあがったのが『どくとるマンボウ航海記』。この大ヒットと、『夜と霧の隅で』の芥川賞受賞で、
北杜夫は一躍流行作家の地位を不動の物とする。その礎をともに築いたのが
宮脇俊三その人だったのである。
ほかにも阿川弘之の紀行作家としての才を発掘する機会があった。大岡昇平なんて人が文庫本の解説を書いていたりもする。
鉄道ミステリーの大家、鮎川哲也の作品に「宮脇堅三」なる編集者が登場している。モデルは、もはや語る必要もないだろう。
- 2006/12/08(金) 21:47:27|
- 宮脇俊三と中央公論社
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- 2007/07/26(木) 20:42:31 |
- 鉄道旅行の考察