◆就職直後の
結核による休職の日々
中央公論社時代のエピソードは『時刻表2万キロ』でさらりと触れられていたが、その内実はよく分からなかった。退社のいきさつが複雑だったからとは想像できる。そんな宮脇が会社員時代のいきさつを初めて明らかにしたのがインタビュー集『私の途中下車人生』であった。
宮脇が東大文学部西洋史学科を卒業し、
中央公論社に入社したのは五一年、二四歳の時である。
就職活動先として選んだのはNHKや文藝春秋、河出書房(現・河出書房新社)とマスコミ関係ばかり。当時としては珍しい指向だったと思う。敗戦直後で宮脇家も大変な時期を迎えていたはずなのだが、疎開先の熱海で仲間を集めて演劇活動をしたり、小説の執筆に取り組んだり、モーツアルトに傾倒したり、とどこか浮世離れした学生生活を過ごしてきた。そうした青年期の蓄積がジャーナリズムへの道に進むきっかけになったようだ。
試験の成績自体は受験者の中で四番目だったにもかかわらず採用されたのは、「どうなるかわからない未知数があったから」(『途中下車』p.92)とのことである。 願書を出した際、宮脇は論文の代わりに短編小説を提出している。列車の中で、見知らぬ男と出会った女性の戸惑いを表現した手記風の作品で、試験官の編集員に気に入られて『
中央公論』に掲載するという話もあったようだ。その物語のエッセンスは、三十年以上後に、舞台を東海道本線から福知山線に変更した上で、『
殺意の風景』第九話「
トレッスル橋の巻」(
余部)で活かされている。
ちなみに、後に
中央公論社を買収し、
中央公論新社として再生させることになる渡邉恒雄(渡辺恒雄 ナベツネ)は宮脇と同じく中公の入社試験を受け、試験成績1位だったにもかかわらず学生時代の共産党で活動歴が嫌われたのか入社はできなかった。渡邉は1951年12月に読売新聞社に入社しているのだが、もしかしたら宮脇と同じ試験を受けていたのかもしれない。2人は1926年生まれ、東京大学文学部卒と妙な共通点がある。
こうして憧れていたマスコミ業界への就職がかなった。会社は丸ノ内の東京駅前にある
中央公論社ビル。まだ明治の赤煉瓦街の雰囲気が残る空間だった。校閲や『婦人公論』編集の体験を重ねながら実績作りを行い、順調な社会人生活を過ごしていた。
だが、翌五二年一〇月、宮脇は肺
結核に倒れて長期休職を強いられる。就職からわずか一年半後、二五歳のことである。特効薬が開発されていたとはいえ、いまだ
結核=不治の病というイメージが強かった時代である。職場から離れ、先妻の実家のある熱海で療養生活を送ることになった。「組合の代表が見舞いにきてくれたこともありました。その人から、いやでも会社の様子が伝えられます。向こうはなにげなく話してくれているのでしょうが、病気の私はイライラしてくるわけです。」(『私の途中下車人生』p.103)
感情の抑揚を抑えた宮脇の文章表現に慣れ親しんできた私にとって、病床での焦燥を包み隠さず告白するこの件は意外にも思える。ふがいない自分の立場に対して、計り知れない挫折感を味わっていたのだろう。
さらに、五三年二月、父・長吉の死。大黒柱の突然の不在は宮脇にさらなる圧力をかける。病気はある程度治癒したにもかかわらず、中公に戻る意欲がわいてこない。挫折感で自信が回復してこない。でも、経済的には自立していかねばならない。建築家に弟子入りして住宅設計を目指すものの、中途で挫折してしまう。愛子夫人は彫刻への道を目指し、自立していく(彫刻家宮脇愛子。六五年に離婚し、後に磯崎新と再婚。現在も活躍中)。
結局、かつての上司の手助けで五六年に再び
中央公論社に戻ることになった。
だが、その時すでに二九歳。働き盛りの時期における四年間の空白は宮脇のキャリアにとっては大きなマイナスである。しかも、所属になったのは、窓際的な所属とみなされていた出版部。「くたびれた人の休憩所みたいな感じ」だった。ゼロからの出発としては厳しい条件であった。
- 2006/12/09(土) 05:45:28|
- 宮脇俊三と中央公論社
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