ここで宮脇の指導役となったのが、後に専務となる高梨茂であった。療養先から戻ってきたばかりの宮脇に対し、事細かには本作りの手ほどきを行う。宮脇はそのノウハウを引き継ぎ、次々と作品作りに没頭していく。同僚だった藤田良一は、この当時の宮脇の日常を「黒革のショルダーバッグを肩に、とことこと出社するや、集中的な編集作業をはじめる」と語る。体調優れず自律神経失調症かと医者にかかってみると乱視が進んでいたとのエピソードも残されている。いつしか職人的編集者として話題の作品を送り出すようになる。
新進気鋭の作家であった阿川弘之の紀行文をまとめてエッセイストとしての側面を開拓したのを手始めに(『お早く御乗車願います』)、着実に実績作りを行っていく。本人が「この時期の忘れられない思い出です」(『途中下車』p.109)と語る、『松川裁判批判』(『
中央公論』臨時増刊)を広津和郎とのコンビでまとめ上げたのもこの頃である。
そして、六〇年、
宮脇俊三は転機を迎える。
まずは北杜夫『
どくとるマンボウ航海記』の刊行である。
精神科医でかつマイナーな同人作家であった北は五八年、マグロの資源調査船に診察医として乗り込んで東南アジアからインド、アフリカ、ヨーロッパへと半年にも及ぶ旅を体験した。1ドル=三六○円の固定相場制、外貨持ち出し制限が設定されていた。ちょっとした小金持ちでも海外旅行に手が届かない時代である。
奥野健男の紹介でその文才を知った宮脇は、紀行文の執筆をむずがる北を口説き落とし、マダガスカル島に伝わるアタオコロイノナという神で始まるその紀行文は一躍ベストセラーに名を連ねる。その過程では、単行本のレイアウトにあわせて文字数を数行、数文字単位で調節するよう要求し、若き日の北杜夫を当惑させたという。
『
世界の歴史』
全集の刊行に着手したのもこの年である。
貝塚茂樹京都大学教授と池島信平文藝春秋取締役を監修者に迎え、歴史学の世界を解き明かそうと志す。ついつい実証研究を中心とした堅苦しい文章になりがちな歴史学者たちにアドバイスを与えながら、広い読者を対象とした分かりやすくて興味深いエピソードをたくさん盛り込んだ読み物を次々と送り出していく。国外の動きにも興味を持ちだした読者家たちの関心を引き、宮脇の担当した第一巻「古代文明の発見」は
全集物としては極めて異例の十万部を突破するに至った。
その功が認められ、週刊誌が休刊になった六一年、宮脇は人員再編成で誕生した第二出版部の部長に就いた。中公に復帰してわずか五年、まだ三四歳の幹部の誕生だった。
さっそく自らの得意分野である旅行を活かして『世界の旅』
全集を送り出す。当時の社史を紐解くと、「週刊誌時代の財政の危機を救った『
世界の歴史』の編集担当」とか「(『世界の旅』は)相当な成績をあげ、週刊誌休刊で重くなりがちな社内の空気を軽快なものにした」と宮脇をベタ褒めしている。これらの成功により、「週刊公論」の不振で巨額の赤字を計上していた
中央公論社の財政事情は好転し、自社ビルを新築するにまで至った。
- 2006/12/10(日) 01:55:23|
- 宮脇俊三と中央公論社
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