そして、若手スタッフと共に新書の研究に着手し、六二年に中公新書シリーズを創刊し、これまたベストセラーの上位に何冊も送り込んでいる。
その中には、ビルマでの抑留生活で遭遇した英国人を冷徹に描いた
会田雄次『アーロン収容所』、性的にも学問的にもタブー視されてきた中国官僚を紹介する三田村泰助『宦官』と業界人の意表をつく話題作も数多かった。
宮脇は、議論や解釈の深みにはまっていくのではなく、「事実のみ持つ無条件の説得力を発揮させる」(刊行のことば)ことに力を注ぐ。愛読していた『史記』の中で司馬遷が立脚していた思想を具現化しようとしていたのだ。今日、書店に行くと、各社から毎月何十冊も発行される新書を見かけると思うが、その編集スタイルを確立したのが宮脇だった。自身も、中公新書の創刊を会社員時代の一番の仕事だったと自負している。
また、六四年には『日本の歴史』全集の刊行をスタートさせ、うるさ型の学者たちをコントロールしながら全二六巻を送り出す。第一巻「神話から歴史へ」(井上光貞)を担当したのはもちろん宮脇部長で、この巻はすぐに五十万部、最終的に百万部を突破した。全集物としては空前絶後の成績をあげた。シリーズ完結後もしばらくは十数台の印刷機が二十四時間フル回転していたという。
その準備に際しては、スタッフを歴史の舞台となる全国各地に派遣した上、『中公ガイドブック』シリーズを刊行している。中公新書に無理矢理新幹線のネタを盛り込んだり(角本良平『東海道新幹線』)、北杜夫に新幹線の試乗ルポを依頼したりもしている。自筆年譜によると、国鉄の乗車距離を計算し、乗りつぶしへの意欲を高めたのもこの頃。再婚も果たし、公私とも充実していた頃だった。
こうして宮脇は、どらちかというと社内では傍流的な立場にあった出版部門を社業の中核的存在にまで持っていくことになる。そして中公も、六〇年代、次項で述べる様々な事件に巻き込まれつつも、絶頂期を迎えることになる。
さて、宮脇は六五年末に月刊誌『
中央公論』の編集長に就任し、六六年一月号から制作の指揮を執る。ついに
中央公論社の伝統と格式を象徴する看板誌に抜擢されたわけだ。将来の
中央公論社を負って立つ人物として、雑誌部門での体験を積ませよういう上司の意図もあったようだ。
着任してしばらくは好成績を上げるものの、三月号あたりから次第に部数が落ち込んでいく。一年半後にその任を解かれる。後任には、次長の
粕谷一希が就いた。粕谷は宮脇を「物事をテキパキ処理するタイプ」で、自分の言うことも良く聞いてくれたと評している。ただ、その編集長としての言及は避けている。宮脇自身も、新機軸を打ち出せた実感はなかったのだろう。
続けて、女性向け雑誌の老舗として名高い『
婦人公論』の編集長に就き、若い読者層の獲得を目指して「ヤング路線」へのリニューアルを試みるが、これまた売れ行きが伸び悩んだ上に、掲載小説を巡るトラブルもあったため、一年ほどで引責辞任することになった。本人が「いごこちのわるい仮住まいだった」(『途中下車人生』p.120)と編集長時代を述懐しているように、書籍畑で歩んできた宮脇にとって看板雑誌の編集長という職はあわなかったようだ。
その後、宮脇は編集局長に転じている。雑誌部門を統括する立場ではあったものの、「実質的には閑職」とみなされていたようだ。年譜においても「私が活躍したのは、このあたりまで」と回想している。
- 2006/12/11(月) 13:43:19|
- 宮脇俊三と中央公論社
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