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こうして宮脇の略歴を振り返ってみると、その豊富な知識や人脈が編集者時代に培われた物であることが分かる。
対談で他人の言葉を引き出す妙、物事を突き放して客観視できるセンスもそうだ。彼特有の語りの巧みさや、シニカルな視点も、阿川や北など当代随一の作家たちの生原稿に触れる機会があってからこそのものだ。材料に大上段から切り込むのではなく、現場レベルの一次資料から議論を積み重ねていこうという誠実さも、誤植が許されない編集者ならではの慎重さから来るものであろう。様々な交流を通じて吸収した知識を自らの糧として昇華させ、独自の視点を付け加えることで、あの巧妙な文体が仕上がった。
その後の中央公論についても語っておこう。
八〇年代になると、会社の屋台骨を支えてきた全集シリーズの売れ行きが急速に落ち込み、経営不振に陥る。新書ブームによるライバルの出現は、看板である中公新書の相対的な地場沈下を招くことになる。『中央公論』『婦人公論』の主要二誌は時代から取り残され、往年の輝きを失った。宮脇と共に出版部門を支えてきた高梨茂も、嶋中社長と対立して中央公論社を去っていく。六〇年代の黄金期を支えたメンバーがみんな消えていった。
時にはマンガ出版やファッション雑誌にも手を出すが、そのセンスの悪さに読者は当惑する。この時期の嶋中鵬二、後継者である嶋中行雄の行動は、やはり中公の編集者だった安原顕『超激辛爆笑鼎談・「出版」に未来はあるか』で克明に批判されている。
結局、経営が回復することもなく、九〇年代に何度となく経営危機説が流れる。九四年に嶋中家長男の行雄が社長に就任するが、二年後に解任。嶋中鵬二が社長に戻るが、巨額の負債を残したまま九七年に死去。嶋中雅子が社長に就く。あの「風流夢譚」事件で瀕死の重傷を負った嶋中夫人である。
そして銀行から負債の整理を求められる中で、自主再建を断念し、読売新聞社の子会社「中央公論新社」として再生する方針を固めた。九九年のことである。
ちなみに、読売社主の渡邉恒雄は宮脇と同じ二六年生まれ。出身も東京大学文学部で、卒業した五〇年にこれまた奇遇なことに中央公論社を受験し、成績は一番だったが試験には合格しなかった。共産党員としての活動歴が問題になったためで、その結果、読売新聞社に入社することになる。
そんな思い出を懐かしげに語る渡邉の言葉はあまり品の良い物ではなかった。
さて中公を去った後も、宮脇の作家生活は二五年間続くのだが、その間、中公の出版物に文章を寄せることは一度もなかった。
編集者として何百何千という持ち込み原稿を断ってきた後ろめたさ、独立したのに出身母体に頼ることへの気まずさ、後輩が自分を気遣うことへの申し訳なさもあったのだろう。そして、取締役時代に経験したしがらみとも距離を置きたかったのだろう。
宮脇と中公との確執については、勝谷誠彦が『旅』誌の追悼文で匂わせている。勝谷自身、「『マルコポーロ』事件」で文藝春秋社を退社しており、自分と共通する気持ちを感じたのであろう。
勝谷誠彦の××な日々。
■2003/03/04 (火) 星空の鉄路を走る列車にて宮脇俊三去り逝きし夜。
http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&start=21&log=200303&maxcount=33
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- 2006/12/17(日) 05:25:16|
- 宮脇俊三と中央公論社
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